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    <title>きまぐれびと</title>
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    <description>気の向くままの雑感</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
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    <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 12:03:24 +0900</pubDate>
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      <title>きまぐれびと</title>
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      <description>気の向くままの雑感</description>
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      <title>鎌倉時代の東海道を歩く(六）  　　――　黒田の宿から一宮へ</title>
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      <description><![CDATA[ JR木曽川駅からの出発である。鎌倉時代の宿場は京都を除いて63宿あったと言われている。尾張地方では、墨俣から黒田、折戸、萱津、熱田、鳴海、沓掛と続く。黒田は古くからの宿場町であり、頼朝が京からの帰りに泊まったところである。駅を降りると東側が木曽川町黒田で、駅の東に線路と並行して岐阜街道が走っており、街道の東が往還東、西が往還西である。岐阜街道は鎌倉街道と重なっているが、このあたりでは交差しており、その関係はよくわからない。往還東東の切と松山東北の切にはさまれた道を通ってお籠勝手神社に至る。ここで、ネットで知り合った河合さんに会う。「一宮街づくり」のメンバーで、鎌倉街道の愛好者でもある。その日の先導役をお願いした。<o:p></o:p>籠守勝手神社というのは古くからの通称であり、地元では「おこもりさん」と親しまれている。境内の由緒碑文によると、飛鳥時代の643年に初めて神札が行われ、延喜式内の黒田神社と比定され、黒田地名原点の地名でもある。1573年に黒田城主により再建された。<o:p></o:p>父を殺された億計王（仁賢天皇）と弘計王（顕宗天皇）の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、籠に籠ってここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭（おこもりまつり）である。かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。それで、籠守勝手神社という名がついた。明治になって、籠守勝手神社と改称されたが、今の正式名称は黒田神社である。河合さんの説明である。<o:p></o:p>神社から南へは、北回りと南回りがあるが、どちらも野府川を渡って、白山神社に出る。角に「史跡馬取り池」の石碑があって、ここを古道が通っていたことを示している。河合さんの話によると、古来神社の西北に古墳と大きな池があったが、古墳を取り壊し池が埋められて水田にしたということ。馬で街道を旅していた旅人が馬に水を与えて、休んでいたら突然馬が消えたという。池の主である大蛇が馬を引き込んだといわれているが、水を飲みに池に入って馬がそのまま沼に飲み込まれてしまったようだ。神社の北は堤防洲であり、周囲は湿地帯であって、「注意しなさい」という知恵だという。<o:p></o:p>神社の前を175号線が走っており、道路の南は田畑が広がっている。元一宮市と木曽川町の境目が古道になっているということだが、一宮木曽川ICができて、道路が断ち切られ、古道どころか、農道と道路との区別もつかず、次の目的地の伊冨利部神社が見つからない。<br />
　自転車に乗った中学生の男の子が親切に連れて行ってくれた。このあたりでは、誰もが知っている神社らしい。伊冨利部氏（伊福部氏）が大和国葛城山より尾張国のこの地域に移り住み、祖先を祀ったという。「いほりべじんじゃ」という。<br />
　前を古道が通っていて、舗道はされているものの幅の広さもそのままで、しばらく風情が残った道がつづく。木曽川町「まちづくり探検隊」が作った冊子によると、「これより鎌倉街道は門間郷の東を通って日光川に架かる小栗橋を渡り、一宮に至る」とある。小栗町で、大きく蛇行した日光川にぶつかるが、橋の名前は西小島橋となっている。<o:p></o:p>JR今伊勢駅の近くに中島宮酒見神社というのがある。河合さんが寄りたいという。古い記録によると、古代、このあたりは島であった。その島に中島宮があって、垂仁天皇（前9年から100年間も統治したという実在すら疑わしい天皇である）の時代に倭姫命が美濃の国伊久良川より尾張国中島宮に遷幸したという伝説がある。酒見神社というのは、その中島跡だといわれている。最近、若い女の子の間でパワースポットとして注目を集めていて、その一番エネルギーが強いと言われる場所を河合氏が写真にとってそれが雑誌に載った。それが、河合氏が寄りたかった理由かもしれない。そこで少しパワーをもらったふりして古道に戻って、日光川から離れて九品町に入って、一宮市街に入って、一宮商業高校のど真ん中にぶつかってしまう。学校の南に九品地公園があって、その中央部から道が飛び出ており、いかにもかつての古道が断ち切られたことを思わせる。学校に説明の看板でも出し、公園に古道の跡を残したら面白かろうに、と思う。ここで小休止。参加者に山男がいて、コッヘルで湯を沸かし、コーヒーをいれてくれる。コーヒーを好まない人には紅茶を用意し、その後にお茶も用意してくれる周到さだ。河合氏が鎌倉街道の、というより一宮のまちおこしの宣伝を始める。小栗判官の話と一宮出身の舟木一夫の話だ。とりわけ、舟木一夫には思い入れが強いようだ。<o:p></o:p>一休みして、無量寿寺から浜神明社に向かう。道路わきの小さな社だが、そこには中島宮に遷幸した後、倭姫命が腰かけたという石がある。当時はここまで、潮がさしこみ、ここで船の出発を待ったのであろう。船をつないだという松もつないだという松も立っているが、ちいさな松だ。何代目の松なんだろう。河合氏のような人がいて、松が枯れるたびに新しく植えて伝説を大事に守ってきたのだろう。　<o:p></o:p>浜神神社の西に真清田神社がある。尾張氏は木曽川の清水で田がうるおうこの地を中心においたようで、真清田の名はそこからきている。尾張一之宮と言って、一宮の名の由来でもある。ちなみに、二の宮は犬山の大縣神社、もっとも知られた熱田神宮は三ノ宮であった。<o:p></o:p>笠縫で泊まった阿仏尼は、墨俣の浮橋を渡って、その日のうちに下津（稲沢）まで足をのばしている。途中、玉ノ井のことも黒田の宿のことも触れていないが、一宮には寄ったらしい。やはり息子のことが気になって、願い事をしたかったのであろう。又一の宮といふやしろをすぐとて、<br />
　　　　　一のみや名さへなつかしふたつなく　三つなき法をまもるなるべし<br />
　　　　　　　　　　　　　　　（十六夜日記）<o:p></o:p>　解説書には、「ふたつなく三つなき法」というのは、一乗の法すなわち法華経をさすとあるが、阿仏尼にとっての法を守るというのは、実子為相が父の荘園を引き継ぐことを指しているように思える。　大きな神社だ。神社の人が私たちの集団を見つけてやってきて、真清田の名は、きれい<o:p></o:p>な湧水に恵まれた田を意味しているとか、戦災で大半が焼かれたが、あの木だけは残った<o:p></o:p>とか、神社がどれほど立派であったかを語り始める。私たちを観光客と思ったのかもしれ<o:p></o:p>ない。　それを遮るように河合氏が本殿の脇の神社（本殿の中の神社）にわれわれを連れて行っ<o:p></o:p>た。服織神社と言って、一宮が機織りの町であったことを示している。参拝する際に鳴ら<o:p></o:p>す鈴に舟木一夫の名がある。百万円を寄贈したと河合氏が自分のことのように得々と語る。<o:p></o:p>これを見せたかったらしい。先ほどの神社の人もついてきて、これまた得々と語る。話は<o:p></o:p>舟木一夫の裏話にまで及びだした。鈴が古びてきて、二度目の寄付を依頼したが断られて<o:p></o:p>しまったということだ。<o:p></o:p>　その時はもう落ち目だったかもしれなくて、それは仕方がないことだと思うのだが、金<o:p></o:p>を出せなくなった舟木一夫に遠慮はいらないと思ったのかもしれない。あれやこれやの彼の出生にまつわる悪口まで言い始めた。由緒正しくない（？）舟木一夫に由緒正しき神社は寄付してもらわなくてもいいとでもいいたげだ。こんなことも知っているとか、有名人の裏話を知っているだけで偉くなったような錯覚に陥るある種の自慢なのか。<o:p></o:p>　　脇で私たちと聞いていた、舟木一夫を一宮の観光大使として売り出そうとしている河合氏の顔色が変わってきた。<o:p></o:p>「あの時は舟木さんも大変な時で、仕方がなかったのですよ」<o:p></o:p>私たちにもくれたまちおこしの名の入った名刺を神社の人にも渡した。<o:p></o:p>「私たちは今一生懸命一宮のまちおこしをしているんですよ。だからここにも連れてきたんすよ。それをよそから来た人になんてことを言うんですか」　<o:p></o:p>そんな河合氏の声が聞こえてきそうだった。神社の人はバツが悪そうにその場を去った。彼は私たちを町おこしの仲間でもある知り合いの喫茶店に誘った。そこで私たちは遅めの昼食をすることにした。私たちが、河合氏がすすめるお好み焼きを食べている間も、奥の方で店主となにやら話し込んでおり、先ほどのことがよほど腹に据えかねたようだった。<o:p></o:p>ここから一宮駅がすぐだが、腹ごしらえもしたので、もう少し足を伸ばすことにした。大江川に沿って歩くと1390年開山したという常念寺、牛野通りと川田町あたりに牛野神明社がみつかる。そこに照手姫袖掛け松があり、石碑に由来が書かれている。<o:p></o:p>熊野で元の体に戻った判官は京に戻り、天皇から常陸、駿河、美濃の国司に任ぜられ、京から青墓に照手姫を迎えに行き、再会し、常陸の国戻る。その折、鎌倉街道筋のこの地の松に袖を掛け、しばし休息したと伝えられる。鎌倉街道はこれを因んで小栗街道とも呼ばれている。ここではもう、土車に乗った小栗判官の苦しい旅ではなく、「恋の道行き」になっている。結神社の願い事が効いたのであろうか。照手姫が小袖を松の木に掛け、判官が彼女の汗をぬぐってやる姿が目に浮かぶ。判官が土車に乗って通った形跡はもうない。妙興寺へ出た。1348年に開山し、南北朝時代には尾張の北朝勢力の拠点でもあった。街道は裏の小さなそれでも残っている東市場神社を通っていたようだ。妙興寺が栄えることによって、市場がにぎわったようで、今も街道沿いに東市場の地名が残っている。妙興寺は広い敷地に道場があり、時には参拝者に座禅を許してくれるようだ。河合氏は住職とも知り合いのようで、何やら話に行ったが、その日は行事をやっていてかなわなかった。妙興寺は城としての機能ももっていたようで、河合氏がその証としての堀が残っていることを教えてくれ、隣接した博物館にも案内しようとしたが、私たちは彼の案内に疲れてしまって、幸いすぐ近くであった妙興寺駅に向かった。河合氏は少し残念そうであったが、私たちは途中の庭先のアジサイが満開であったことに満足してしまっていた。帰りの列車内で、疲れの癒えた頃、彼に悪かったかなと私たちは少し反省した。<o:p></o:p> ]]></description>
      <dc:subject>鎌倉街道(中世東海道）</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 10:10:39 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-03-02T10:10:39+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』７</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34405627/</link>
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      <description><![CDATA[　フランス革命後自由の理想はヨーロッパ中に広がっていったが、自由主義や民主主義の原則は薄められ、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」を出すが、1848年の革命は成功しなかった。ナポレオン3世が大統領になり、イギリスは漸進的改革に着手し、選挙権を拡大していった、ロシアがトルコを破ることができず、イタリアとドイツが独立した。ドイツとフランスの社会主義者はインターナショナルの原則を守ることが出来ず、互いに争い合った。　民主革命は、政府とは神の意志ではなく、人間が作ったものであることを明らかにした。しかし、同時に、もし政治指導者が国民多数の支持を得ることができるなら、旧体制の指導者たちが及びもつかない権力を手にできるということでもあった。国民徴兵制だ。<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 25 Feb 2026 14:10:10 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-25T14:10:10+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』６</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34401889/</link>
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      <description><![CDATA[　1500年、地理上の大発見と宗教改革が中世ヨーロッパにとどめをさした。<br />
　　1492年コロンブス、アメリカ大陸へ<br />
　　1498年ダ・ガマ、喜望峰へ<br />
　　1522年マゼラン<br />
　　ルネサンスと宗教改革<br />
　18世紀末から、ヨーロッパ社会では互いに対をなす二つの変革が開始された。フランスから広がった政治革命は、旧体制のもとでの複雑な集団的特権層を破壊し、おびただしい数の個々の市民のエネルギーを解き放った。政府と国民は、それまでになく緊密に協力するようになった。その国民の意志が表明される手段として選挙があり、暴動、デモがあり、もしくはジャーナリズムがあったが、当面の政治的指導者に黙って従うことも、同様に意志の表現であり、何百人もの国民が戦争のために動員された。（1688年名誉革命、1789年フランス革命）やがて、新しい形の特権層（ブルジョワジー）が生まれ、19世紀の終わりに近づくにつれて、既存の体制に対する新しい社会主義の挑戦が勢いを得ていった。<br />
　もうひとつの変革は産業革命である。フランスで政治革命がおこったときにすでにイギリスの経済は、機械力をマニュファクチャーに応用することで変革をはじめていた。人類は農業革命によって急速に人口をふやしたが、貧しさは狩猟時代以下であった。（マルサスの論理）それが、産業革命によって人々は豊かになった。しかし、それは先進国だけであり、自然を搾取する見返りという面をもっており、環境問題がおこるようになった。<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 24 Feb 2026 16:02:45 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-24T16:02:45+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』５</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34401366/</link>
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      <description><![CDATA[　中東にコスモポリタン文明が完成し、インド、ギリシャ、中国に新しい高文化がおこるが、ステップ地方の遊牧民たちは西ヨーロッパ全土に攻め込み、その先住民を征服し、吸収した。力に訴える習慣とか、戦士的な美徳はヨーロッパ人の意識に植え付けられた。（青銅器時代の征服者もたらした古代語から由来しているインド・ヨーロッパ語族）　紀元前1680年頃エジプトはヒクソスに征服され、メソポタミアはカッシートに権力を奪われ、クレタ文明はアカイア人、インダス文明はアーリア人に滅ぼされる。ミュケナイ人のギリシャ、アーリア人のインド、殷人の中国となる。<br />
<br />
<br />
　ペルシャを退けたギリシャは、ペロポネソス戦争とマケドニアに支配され、ヘレニズム文明をおこし、ローマが台頭する。長く続いたローマも弱体し、三度にわたる蛮族の侵入にみまわれる。まず、中央ヨーロッパにフン族が侵入する。ゴート、ブルグンド、ヴァンダル、フランク、アングロサクソンその他のゲルマン民族が、<br />
　第二波として378年から450年ごろまでにローマ領国内に入った。ガリアにおけるフランク王国が統一された後、アヴァ―ル族の遊牧民の集団が、南ロシアからハンガリー平原に侵入してきた。バルカン半島の北部及び中央部をスラブ語が話される地域に変えてしまった。568年以後、ゲルマンのランゴバルド部族はイタリアの内陸部全体からビザンチンの勢力を追い払った。718年以後ビザンチンの支配力は一定恢復されるが、ドナウ下流にはブルガリア帝国、ヨーロッパ国極西部のカロリング帝国の二つの蛮族国家ができる。一般語は、ラテン語から離れ、ゲルマン語ロマンス語系の様々な言語になっていく。<br />
　第3波としてマジャール人ハンガリー人がビザンチン海軍を全滅させ、さらにヴァイキングである。やがて、ロシア、ハンガリー、スカンディナヴィア三王国がキリスト教による執政をはじめて、ヨーロッパは封建制度の始まりをむかえる。<br />
　<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 24 Feb 2026 12:47:45 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-24T12:47:45+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』４ー遊牧民の登場</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34380646/</link>
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      <description><![CDATA[　中東式の新石器農耕は、温度、降雨、自然林などの条件のゆるすかぎり、間断なく新地方にひろがった。やがて、いくらかの時間をおいて、文明の名を冠してもおかしくない複合度の高い社会が、これまた新しく、条件の適した土地にうまく根をおろした。　初期農耕が発生した丘陵山岳地帯の北のユーラシア大陸のステップ地帯においては、木が少なく、したがって焼畑農耕に適した場所はほとんどなかったが、ステップ地帯特有のひろい草原は、家畜の群れを飼育するのに適していた。ステップの狩猟民たちは、初期農耕民が発達させた一連の技術に接したとき、家畜飼育をとり入れたが、穀物栽培のための骨の折れる農耕は受け入れないで、自分たちの自然環境に対して効果的な適応をとげた。遊牧民的スタイルである。紀元前3000年頃である。<br />
　こうした生活にあっては、実力のある大動物狩猟者特有の組織力や力に訴える習性などが引き継がれ、すぐに表立って姿を現した。それに反して、初期農耕民の共同体社会は、きわだって平和で平等主義的だった。遊牧民が農耕民とぶつかって戦うときには遊牧民は決定的に有利であった。農耕民の生活によって可能になった人間の数の優位と遊牧民の必要から生まれた政治・軍事組織の優越とがぶつかりあった。<br />
　エジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明と蛮族と呼ばれる人たちである。<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 23 Feb 2026 16:47:10 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-23T16:47:10+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』３</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34327360/</link>
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      <description><![CDATA[　中東に発生した穀物栽培と家畜飼育、このスタイルの生活から、最古の文明は発生した。　死海の塩を得るのに好都合なジェリコでは城壁をめぐらした町が成立した。紀元前７０００年以降のことである。小アジアの黒曜石の産地であるチャタル・ヒュユクは交易の町として紀元前６０００年ごろに成立した。黒曜石は砕くと鋭利な刃物が得られる。<br />
　しかし、文明が拡大するには、もっと広い生態学的基盤が必要であり、それがシュメルの地であった。ペルシャ湾に接する、ティグリス・ユーフラテスの下流の沖積平地であった。ここに毎年運ばれてくる水を管理し、こで穀物栽培をおこなうためには灌漑が必要であり、その為には何百人、何千人という人々の集団労働が必要であり、ある種の管理的エリートの手で支配することが不可欠だった。この背景にはある民族が他の民族を征服し、奴隷が生まれたのかもしれないし、支配するものとされるものにわかれたのかもしれない。紀元前４０００年から紀元前３０００年のことである。軍事組織が発達し、自分たちの代理人として神官が登場した。農耕に必要な季節の予言をする神官が力をもち、理路整然とした神学体系が作られた。話し言葉を記録できる方法も見つけ出した。<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 21 Feb 2026 12:38:43 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-21T12:38:43+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』２</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34325175/</link>
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      <description><![CDATA[　原始の狩猟民の集団が、南アメリカの南端にあるティエラ・デル・フェーゴ島に到達したばかりのころ、中東一帯で新しい人間生活のスタイルが確立した。原始の狩猟民の集団が、南アメリカの南端にあるティエラ・デル・フェーゴ島に到達したばかりのころ、中東一帯で新しい人間生活のスタイルが確立した。メソポタミアの北及び東の丘陵地帯に位置した少数の人間社会が、植物を栽培し、家畜を飼育して自分たちの自然環境を作り変え始めたのは、おそらく紀元前8500年ないし7000年のことであろう。　アジアのモンスーン地帯のどこかで、中東の穀物中心の農耕スタイルとは別に、根菜植物に中心をおくある種の農耕が始まった可能性がある。また、多くの専門家が、アメリカ大陸や東アジアや西アフリカで、食料生産が独自にはじめられたと想像している。<br />
　人間社会の基本単位は、遊動する狩猟民集団から村落共同体に移っていった。人間の数は飛躍的に増した。<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 20 Feb 2026 21:40:27 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-20T21:40:27+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『世界史』（ウイリアム・H・マクニール）１</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34321590/</link>
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      <description><![CDATA[　かつて『人間の歴史』という本があったが、これは唯物史観と人間中心という、今では時代遅れの著書である。　それでこの本を紹介する。歴史を概括的に記述した本である。<br />
<br />
<br />
　初期人類の狩猟民は、動植物の世界の間に小さな生活空間を得て暮らしていたのだが、それら動植物の生態学的均衡にはさして重要な変化がおこらなかったので、たぶん人間の生活は小さな、流浪する狩猟採集者の集団に特有な行動様式をずっと守っていたのだろう。<br />
　しかしながら、地球上のいくつかの重要な地域において自然環境の変化が起きた。約3万年前に、氷河の氷がヨーロッパと北アジアとアメリカから、溶けて後退し始めた。あとに残った裸の土の上に、ツンドラとまばらな森が形成された。西ヨーロッパでは比較的湿潤な気候が生まれ、その結果埴生が豊かになって、亜寒帯性の草食動物である、マンモス、トナカイ、野牛などが繁殖するようになった。これらが、古代の狩猟民たちの生活に限界と制限を与えてがんじがらめにしていた慣習から人間を解き放ち、文化発展の第一歩を踏み出させた。水生動物の資源を採ることを学んだ人もいて、比較的定住的な社会も発展した。<br />
]]></description>
      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 20 Feb 2026 17:21:01 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-20T17:21:01+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>ボノボの道かチンパンジーの道か</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/34230692/</link>
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      <description><![CDATA[　高市自民党の圧勝。　そのことの意味は、これからいろいろ論じられるであろうが、私の気持ちを一番よく表してくれたのは、友人からのこんなコメントである。<br />
　戦後の国連中心体制が崩壊し、世界が戦前の世界に戻った。その中で、その世界をどう生きるか。その中での選挙だ。その結果は、日本と日本人が、戦後のトラウマから脱し始めたともいえる。<br />
　後半の言葉は少し誤解を招きやすい言葉であるが、もうひとりの友人は戦後日本の左翼はマルクスだけをよりどころにして、自分たちの頭で考えてこなかったと言っている。息子の一人はおじさんの価値観からの脱却だとも言っている。<br />
　どちらにしてももう一度歴史を振り返って考え直してみたい。<br />
　そもそも人間はどうしようもない生き物なのだろうか？人類の仲間にチンパンジーとボノボがいる。我々の遺伝子の中には同じ遺伝子が両方半々の割合で見つかる。チンパンジーはオス中心の専制国家で、オスは凶暴である。しかし、メスは生活を大事にしてやさしい。ボノボはヒッピーに例えられるくらい親和的で性的である。<br />
　人間も初めは、自然に順応して生きてきた。それが自然を支配するようになった。1万１千年前から植物を支配し、（農業革命）１万５００年前から動物を支配し、（牧畜）9500年～9000年前から鉱物も支配した。（冶金）動物たちは狩猟採集民の拡がりに伴う第一波で、農耕民の拡がりの第2波、産業活動が引き起こしている第3波で滅びていった。オーストラリア・ニューギニアの大型動物はすべて人間が渡ってきた後に絶滅した。<br />
　人間のすべてが危険な種というわけでもないかもしれない。アイヌや日本の漁業者たちは資源の保全を前提として狩猟をしていた。獰猛なマオリ族も平和なモリオリ族もいる。しかし、戦争に勝つのは賢くて獰猛な奴である、ということか。<br />
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　ホモ・サピエンスは、7万年ほど前に中東に到達した。その後の5万年間、私たちの祖先はそこで農耕せずに繁栄した。そのあたりの天然資源は、そこの人口を十分支えられた。潤沢な時期には、人々は少し多く子供を生み育て、欠乏の時期には、逆に子どもの数が減った。他の多くの哺乳動物も同じで、人類は繁殖を制御するのを助けるホルモンや遺伝子の仕組みを持っている。条件の良い時期には女性は早く思春期に達し、妊娠する可能性が少し高まる。…移動が遅く、世話が焼ける乳幼児は、放浪の狩猟採集民には重荷だった。そこで人々は子どもと子どもの間隔を3、4年置こうとした。女性は、四六時中授乳していると、妊娠する可能性が減る。性的禁欲、妊娠中絶、ときおりの間引きもあった。（2025年7月5日、7月9日のブログ参照）<br />
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　農耕が始まって、農耕が富の蓄積を生み、その富の蓄積が権力を生み、権力が国家を生み、国家が争い始めて戦争が始まった。人口は増えたが生活は豊かにならなかった。1800年の産業革命まで人々の生活は向上していない。1800年当時の平均余命は30～35歳で、狩猟採集生活の時代に比べても長くなっていない。食事の質や子どもの罹病率の目安となる人々の身長は、石器時代の方が高かった。労働時間も短かった。これは、技術進歩を通じて実現した短期的な所得の増大が、人口の増加によって相殺されたからである。（マルサスの罠）<br />
　産業革命以後、技術の進歩によって人間は豊かになった。格差が広がったが、国家間の戦争だけでなく、人々の権力との戦い（革命）も始まり、民主主義や平等の考えがひろがった。しかし、それは先進国の中だけの話であり、一時は希望をもたらした社会主義は幻想にすぎなくなり、地球温暖化や自然破壊は待ったなしの状況になった。<br />
　ブッダは欲求こそ苦しみの根源だと言っている。狩猟・採集民は、現代人ほど働いていない。食料捜しは断続的な仕事で、ふんだんに余暇を楽しみ、1年あたりの時間においても、一人当たりの時間においても、これ以外のすべての社会とは比べものにならない長い間昼寝をして過ごしていた。しかし、「豊かさ」は、「厳しい人口抑制と低欲望の生活様式」に支えられていたともいえる。脱経済成長をかかげる緑の党のような動きもある。<br />
　そんな時に、プーチンがトランプが習近平がそして高市もかもしれない。世界が専制国家に振り回され始めた。格差是正と環境問題の解決どころか、第３次世界大戦の危険さえみられる。私たちはどうして第２次世界大戦を始めてしまったのか、どうしてヒトラーを選んでしまったのか、今度こそ間違いを起こさないためにはどうしたらいいのか、そこから出発しなおさなければいけない。<br />
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      <dc:subject>私たちはどこから来てどこへ行くのか（改訂</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 12 Feb 2026 17:04:26 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-02-12T17:04:26+09:00</dc:date>
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      <title>宿場町・鳴海　4</title>
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      <description><![CDATA[　本町の交差点は、浅間橋から成海神社への道との交差点で、本町からそちらに少し寄り道すると左に誓願寺と円道寺　　右に高札場と鳴海神社の天神社。高札場は本町にあったものだ。善という大名茶屋があるが、今はもう営業してない。残念だ。その前に山車の車庫があって、そこは鳴海宿本陣跡。予備の脇本陣が2軒あったとあるが、どこなのか知らない。　そこは作町の交差点。街道は右に大きく曲がっているが、左の道は扇川にぶつかってそこはかつての波止場である。扇川は運輸に使われ、その川下にも大高があって、その川も運輸に使われたのか、その川を上っていくと水主ヶ池公園という名が残っている。如意寺、山車の倉庫がもうひとつあって、三皿に長翁寺があって、丹下に辿り着く。鳴海の宿場の出口である。右側が山、左側が海で、左は埋めたてられて整然とした道路が、右は昔の小道がいっぱい残って面白い。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/22/75/c0040775_15372565.jpg" alt="_c0040775_15372565.jpg" class="IMAGE_MID" height="284" width="500" /></center><br />
]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 22 Jan 2026 15:08:17 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-22T15:08:17+09:00</dc:date>
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      <title>宿場町・鳴海　3</title>
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      <description><![CDATA[　中島橋を渡ると右角は瑞泉寺。下郷という家が何件か並ぶ。左に神輿の倉庫。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/22/75/c0040775_14354445.jpg" alt="_c0040775_14354445.jpg" class="IMAGE_MID" height="254" width="500" /></center><br />
　ここはかつて門の脇にある部屋であった。今は「緑土地管理」の事務所になっていて、そこの主人の設計士が以前、趣味でそばをうっていて、私も食べに行ったことがある。千代倉というのは下郷家の屋号。下郷家は酒屋を営む鳴海の長者であったが芸事にも通じていて、知足は芭蕉と俳句仲間でもあった。下郷家に残る歴史資料は膨大で、今は資料館が作られている。<br />
　<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/22/75/c0040775_15354085.jpg" alt="_c0040775_15354085.jpg" class="IMAGE_MID" height="369" width="500" /></center><br />
その先の道がかぎ型になっていて、これは城下町によくみられる敵の侵入に備えるための道で、ここが室町時代の鳴海の城下町であったことを示す。大高も同じような道がある。昔の湯たんぽなどが並ぶ金物屋があって、畳屋もあって、本町に至る。<br />
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]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 22 Jan 2026 14:38:49 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-22T14:38:49+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>宿場町・鳴海　２</title>
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      <description><![CDATA[　商店街でよく見る間口の狭い長細い敷地の家が並び、ところどころ格子の家がまだ残っている。畳屋がある。先にもあって、ここら辺はまだ和室が多く残っているのかも。玄関口に絞りの暖簾がかけてある店があって、近藤商店という。鳴海絞りの店だ。有松で作られたものが有松絞といい、鳴海で作られたものが鳴海絞と呼ばれるだけで、製品は同じである。ここは猩々の祭り発祥の地でもある。向かいは金剛寺、すこし先が扇川を渡る中島橋である。昔は土橋であったが、江戸時代に象がやってきたときにはここを渡っている。橋を渡ると瑞泉寺、渡る手前に川沿いに細根道。芭蕉が下郷家から細根山の天神社に向かった古道である。途中に史跡は何もないが、昔ながらのたたずまいの家が並んでいたりする。　細根山には昔下郷家の別荘があり、そこで芭蕉たちが集まった。湛然堂址や三吟塚がある。<br />
<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/20/75/c0040775_15272875.jpg" alt="_c0040775_15272875.jpg" align="left" class="IMAGE_LEFT" height="269" width="400" /><br />
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<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/20/75/c0040775_15274029.jpg" alt="_c0040775_15274029.jpg" align="left" class="IMAGE_LEFT" height="421" width="400" />　　<br />
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　　　宵闇や　霧のけしきに　鳴海潟　　　　　其角<br />
　　　旅路かさなる　雁声　　　　　　　　　　知足<br />
　　　関風の　色吹越る　山見へて　　　　　　莫言<br />
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]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 20 Jan 2026 15:10:12 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-20T15:10:12+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>宿場町・鳴海　１</title>
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      <description><![CDATA[　日本橋を出発した東海道は有松を経て平部北で鳴海の宿に入る。ここから歩いてみる。　<br />
<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/19/75/c0040775_15020107.jpg" alt="_c0040775_15020107.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="301" width="400" /><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/19/75/c0040775_15012819.jpg" alt="_c0040775_15012819.jpg" align="left" class="IMAGE_LEFT" height="301" width="400" /><br />
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]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 19 Jan 2026 15:07:19 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-19T15:07:19+09:00</dc:date>
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    <item>
      <title>鳴海12ヶ寺古刹めぐりー東福院、長翁寺、光明禅寺</title>
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      <description><![CDATA[　東福院は鳴海城の下にある。赤塚にあったが兵火で焼失、森下を経て1614～44に現在地に来た。鳴海城の廃材で現在地に再建して、今でも山門にそれが残っている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/16/75/c0040775_16575710.jpg" alt="_c0040775_16575710.jpg" class="IMAGE_MID" height="290" width="500" /></center><br />
長翁寺は三皿の角にあり、光明禅師寺は丹下お常夜灯から丹下砦跡に向かう途中にある。門の仁王様がなかなかいい。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/16/75/c0040775_16511151.jpg" alt="_c0040775_16511151.jpg" class="IMAGE_MID" height="376" width="500" /></center>三つとも曹洞宗。この辺りの寺に曹洞宗が多いのは、武士が行き来した関係だろうか。長翁寺は織田楽師と呼ばれ、元は薬師山にあったが、1573～92年にこの地に移った<br />
　ここまでで11寺にしかならないが、もう一つ古鳴海の方に桂林寺があって、鳴海12ヶ寺という。<br />
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]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 16 Jan 2026 16:37:43 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-16T16:37:43+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>鳴海12ヶ寺古刹めぐりー円道寺、誓願寺、如意寺、</title>
      <link>http://kimagurebi.exblog.jp/33999435/</link>
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      <description><![CDATA[　浅間橋から鳴海神社へ向かう途中、東海道を渡ってすぐに誓願寺と円道寺がある。西山浄土宗と曹洞宗。誓願寺は千代倉家（下郷家）の菩提寺で、その関係でか、境内には芭蕉ゆかりの供養塔や御堂がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/16/75/c0040775_15585827.jpg" alt="_c0040775_15585827.jpg" class="IMAGE_MID" height="376" width="500" /></center>円道寺は面白いお寺である。更申山猿堂寺と称していて、屋根の上に見ざる、言わざる、聞かざるの3猿が据えられている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/17/75/c0040775_15324130.jpg" alt="_c0040775_15324130.jpg" class="IMAGE_MID" height="208" width="500" /></center>如意寺は東海道に沿って、丹下へ向かう途中の鳴海保育園の中にある。（如意寺の中に保育園があるというべきか）<br />
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]]></description>
      <dc:subject>緑区散策</dc:subject>
      <dc:creator>kimagurebito</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 16 Jan 2026 16:13:16 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-16T16:13:16+09:00</dc:date>
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