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 鎌倉街道(尾張編)5――一照手姫袖かけ松

 一宮の街には、古道の跡がまだ残っている。
 九品地公園を突き抜けて、真清田(ますみだ)神社の東を古道の面影を残す無量寿寺裏の道から浜神明社を通り、155号線を過ぎるとお寺が密集している。真光禅寺、高陰寺(跡)、常念寺、廻向院、福寿院、既得寺。古い寺院も多く、かって街道が通っていたことを裏付けている。
 高陰寺は天正以前、常念寺は明徳元年(1390年)の開山である。福寿院は神亀年間(724~729年)行基の草創、既得寺は広永年間(1394~1428年)だ。 
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 浜神明社は垂仁天皇の時代、倭姫命がここに滞在したという。往時は潮がさしこみ、姫の舟を繋いだとする松や腰かけ石がある。写真の立て札には、
   神明渡
   御古志加計岩(おこしかけ石)
   姫繋松
 と書かれているが、どの松を指すのかわからない。もし今でも残っているのなら巨木になっているはずだが、そんな松は見当たらない。
 潮がさしこんでいたというのは、あながち嘘ではない。それでも、名古屋の南が海であったことは知っていたが、こんなところまで海であったのであろうか。少し調べてみた。
 温暖化で海面の上昇が心配されているが、過去そういうことは何度もあった。逆に海面が下がっていたり、大陸移動があったりして、大昔、日本が大陸につながっていたことはよく知られている。
 そんなに過去にさかのぼらなくても、海面の上がり下がりぐらいは、よくあったことがわかった。
 最後の氷河期が終わって(6000年前?)から紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった。これは縄文草創期から縄文前期に相当する。縄文前期の中頃では、現在より平均海水温が約2℃、海面が約4m高くなっていたようだ。これは、“縄文海進”とよばれている。
 縄文時代中期後半以降、気候が再び寒冷化し海岸線が徐々に後退し始める。海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていった。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだ。
 西暦600年ころから再び気候温暖になり始め、700年~1300年の間は世界的に比較的温暖であったらしく、気候小最適期とよばれている。1400年ころ気候が再び寒冷化していって、現在の地形になったようだが、鎌倉時代は気候温暖で今より2mほど海面は高かったことになる。
 垂仁天皇の時代は紀元前後。もう寒冷化に向っていて、まだ鎌倉時代のような温暖化には至っていない。とすると松に舟を繋いだというのは眉唾物である。
 にしても、こういう伝説があるということは、縄文時代には海が迫っており、その記憶が代々伝えられていって、別の話と一緒になったということはある。
 
 浜神神社からは、ところどころに地蔵があったりするそれらしい道を、ともかく、大江川に沿って、南に下ると、牛野通りと川田町のあたりに牛野神明社が見つかる。そこには、照手姫袖かけ松と言われる松があって、石碑に以下の由来が書かれてある。
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 浄瑠璃、歌舞伎で名高い照手姫が室町時代中頃、常陸(茨城県)の城主小栗判官助重と恋の道行の折、鎌倉街道脇のこの地の松に小袖を掛け、しばし休息したと伝える。鎌倉街道はこれを因んで小栗街道とも呼ばれる。

 小栗氏は桓武天皇の血をひく常陸・平氏の一族で、常陸国真壁郡小栗(現在の茨城県真壁郡協和町)を本拠地として、鎌倉時代には御家人であった。室町時代の1411年10月に鎌倉公方に叛して兵をあげ、小栗満重は自刃。その子助重は、一族の領地のある三河の国に逃れ、結城合戦で戦功をあげ領地を回復したが、1455年落城し、助重の消息は不明となった。
  「鎌倉大草子」によると、助重(小栗判官)は、三河の国へ逃げる途中、盗賊に毒を盛られようとするが、遊女照姫に助けられ、無事危機を脱する。やがて、旧領を回復し、照姫を探し出し、照姫は、判官死後も判官と毒殺された家来どもの霊を弔いながら余生を送ったという。
 この話が、説教説という中世の口承芸能によって広められ、様々な尾ひれがついて、その地その地で色付けの違った物語になっていったようだ。
 「小栗実記」では、相模の国(神奈川県)の盗賊は、郡代・横山一統になっており、謀略で毒酒を盛り殺害されようとするが、これを察知した横山の娘照手の機転により一命を取り留めたことになっている。
 小栗は、口に含んだ毒酒の害で、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけず、といった重病人(餓鬼病)の姿となる。一方、照手も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣らの助けもあり小栗判官との再会が叶う。しかし小栗判官の病は意外にも重く照手の強い思いで、治療のため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。
 碑に書かれている恋の道行きというのは、この時のことであろうか。
 ここから古道は妙興寺裏の東市場社、日吉神社にでることになっているが、道に迷ってしまった。細い獣道があって、古道にしては狭すぎるが、古道を歩き出してからこういう道を見るとどうしても極めたくなってかきわけかきわけ進んでいくと、お堂が現れた。雲水さんから、ここは関係者以外立入禁止なんですけどと注意され、事情を話したら、道を教えてくれた。そこは妙興寺の修道所で、私が出たところは、寺の表であった。そのまま名鉄妙興寺駅へ出て、帰る事にした。
by kimagurebito | 2009-04-13 11:09 | 鎌倉街道 | Comments(0)


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