岐阜県羽島市の地図を広げてみてほしい。岐阜市との境、墨俣から笠松町にかけて境川が走っている。大洪水以前の木曽川はこの境川が本流で、今の木曽川は支流のようなもので、及川又は足近川と呼ばれていた。流れも笠松町北及あたりから大きく西に曲がり、やはり長良川に注いでいた。笠松町から小熊町天王へ小さな川が長良川に向って流れているが、イメージ的にはこの川につなげてみればいい。すると、三つの川で囲まれる三角地帯が生まれる。これが足近輪中と呼ばれ、村は輪中堤で守られていた。今回は(日曜日のことではあるが)ここを歩くのが目的である。
名鉄竹鼻線南宿駅北の道を、踏み切り、1号線と越えて、どこまでも西へ歩いていくと長良川にぶつかる。境川が流れ込む辺りである。長良川は昔、墨俣川と言って、古今、東西勢力がぶつかりあうところとして知られている。古くは大海人皇子が、地元の女性によって、たらいに隠れて川を渡り、難を逃れて、形勢をたてなおした話がある(宇治拾遺物語)。
治承4年(1180年)、以仁王が、平氏追討を全国各地の源氏に挙兵を呼び掛けた。この時は、呼応する挙兵勢力も現れず、企てが発覚して以仁王も死亡してしまうが、この挙兵がきっかけになって、後6年間にわたる内乱が始まる。
1180年木曽義仲が挙兵し、頼朝も関東を支配下におさめる。
1181年清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失うが、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。この時、平重衡ら7千余騎が墨俣川西側に構え、新宮十郎行家、源義円ら三千余騎の源氏が東岸に陣を整えた。義円は行家に先をこされまいと一人馬で西岸へ一番乗りをしようとしたが平盛綱に討たれてしまう。行家も、遅れてなるかと夜討ちをかけたが敗れ矢矧川まで退くことになる。墨俣の義円公園内には義円の供養塔があり、、毎年3月11日の命日に供養が行われる。 25歳の若さで亡くなった義経の兄義円の墓は田んぼの中である。
先に入洛したのは木曽義仲であるが、やがて義経らに破れ、1192年鎌倉幕府が成立する。その後も後鳥羽上皇が源氏追討の戦いを起こし、(1221年承久の乱)その時も墨俣も戦場になっている。

この戦場の地から出発する事にした。まだ美濃路でもある鎌倉街道は境川の堤防である。坂井村あたり真で行くと親鸞聖人旧跡の石碑があり、そこから堤防を降りて、鎌倉街道は堤防よりに、美濃路は南へ向う。
堤防を降りてすぐに足近神社。2本向こうの道に阿遅加神社の石柱。昔はここからが神社の敷地で、足近郷10ヶ村の総社であった。写真の奥に鳥居が見えるが、社は更にもう1本向こうの道に添っている。

堤防沿いの道なりの道を行くと左手に西方寺が現れる。602年に善光寺如来を安置したのが始まりという古いお寺だ。817年に法相宗を天台宗に、1235年に親鸞が関東よりご帰格の折、当地に留銭して浄土真宗に改宗する。親鸞はこの地でかなり精力的に説教をしたようで、地名学者の尾藤卓男氏によると、直道、坂井、東小熊、西小熊の寺院はほとんどが真宗寺院で、羽島市内の60ヶ寺が真宗大谷派だそうだ。親鸞が東国からの帰途に布教しただけでなく、その後の蓮如のフォローも大きいらしい。
都へはもう足近き直道の国へ土産は南無阿弥陀仏
親鸞が詠んだ句である。

西方時の前の道を進むとすぐに1号線にぶつかる。行きに通った交差点よりやや北である。1号線を越え、さらに線路も越え、白山社の前のそれらしい道をすすむと小川にぶつかる。今はもうそれらしい跡はないが、少し手前に足近堤があったということだ。ということは、この小川がかっての木曽川ということか。
先へ行くと社があって、そこの「神明神社略記」によると、 鎌倉街道に添ったこの下門間荘は大河足近川の水害に悩まされ、この社を建てたとある。社の周りは住宅に囲まれており、すぐ近くに151号線も通っているが、家も県産業技術センターなども水田の中に浮かぶように立っており、往時が偲ばれる。
ここで、昼食をとった。ランチを頼んだが、そのボリュームのすごさに驚いてしまった。田舎の人はこんなに食べるのだ。
昼食後、最後の目的地である児神社に向う。社の前には前の道が鎌倉街道であることを示す案内もあり、すぐ傍らに誓広寺もある。近所に街道を偲ばせる地蔵もあるが、鎌倉時代のものなのか、江戸時代のものなのかわからない。鎌倉時代にはもうこの辺りは川であったからだ。ここからは舟で木曽川町の方へ向った。
鎌倉街道を歩こうとする人は、183号線沿いのCOFEE STEAKの店MATYUYAを目印にするといい。そこで児神社と言えば教えてくれる。