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鎌倉時代の東海道を歩く(六)   ―― 黒田の宿から一宮へ

JR木曽川駅からの出発である。鎌倉時代の宿場は京都を除いて63宿あったと言われている。尾張地方では、墨俣から黒田、折戸、萱津、熱田、鳴海、沓掛と続く。黒田は古くからの宿場町であり、頼朝が京からの帰りに泊まったところである。駅を降りると東側が木曽川町黒田で、駅の東に線路と並行して岐阜街道が走っており、街道の東が往還東、西が往還西である。岐阜街道は鎌倉街道と重なっているが、このあたりでは交差しており、その関係はよくわからない。往還東東の切と松山東北の切にはさまれた道を通ってお籠勝手神社に至る。ここで、ネットで知り合った河合さんに会う。「一宮街づくり」のメンバーで、鎌倉街道の愛好者でもある。その日の先導役をお願いした。

籠守勝手神社というのは古くからの通称であり、地元では「おこもりさん」と親しまれている。境内の由緒碑文によると、飛鳥時代の643年に初めて神札が行われ、延喜式内の黒田神社と比定され、黒田地名原点の地名でもある。1573年に黒田城主により再建された。

父を殺された億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、籠に籠ってここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。それで、籠守勝手神社という名がついた。明治になって、籠守勝手神社と改称されたが、今の正式名称は黒田神社である。河合さんの説明である。

神社から南へは、北回りと南回りがあるが、どちらも野府川を渡って、白山神社に出る。角に「史跡馬取り池」の石碑があって、ここを古道が通っていたことを示している。河合さんの話によると、古来神社の西北に古墳と大きな池があったが、古墳を取り壊し池が埋められて水田にしたということ。馬で街道を旅していた旅人が馬に水を与えて、休んでいたら突然馬が消えたという。池の主である大蛇が馬を引き込んだといわれているが、水を飲みに池に入って馬がそのまま沼に飲み込まれてしまったようだ。神社の北は堤防洲であり、周囲は湿地帯であって、「注意しなさい」という知恵だという。

神社の前を175号線が走っており、道路の南は田畑が広がっている。元一宮市と木曽川町の境目が古道になっているということだが、一宮木曽川ICができて、道路が断ち切られ、古道どころか、農道と道路との区別もつかず、次の目的地の伊冨利部神社が見つからない。
 自転車に乗った中学生の男の子が親切に連れて行ってくれた。このあたりでは、誰もが知っている神社らしい。伊冨利部氏(伊福部氏)が大和国葛城山より尾張国のこの地域に移り住み、祖先を祀ったという。「いほりべじんじゃ」という。
 前を古道が通っていて、舗道はされているものの幅の広さもそのままで、しばらく風情が残った道がつづく。木曽川町「まちづくり探検隊」が作った冊子によると、「これより鎌倉街道は門間郷の東を通って日光川に架かる小栗橋を渡り、一宮に至る」とある。小栗町で、大きく蛇行した日光川にぶつかるが、橋の名前は西小島橋となっている。

JR今伊勢駅の近くに中島宮酒見神社というのがある。河合さんが寄りたいという。古い記録によると、古代、このあたりは島であった。その島に中島宮があって、垂仁天皇(前9年から100年間も統治したという実在すら疑わしい天皇である)の時代に倭姫命が美濃の国伊久良川より尾張国中島宮に遷幸したという伝説がある。酒見神社というのは、その中島跡だといわれている。最近、若い女の子の間でパワースポットとして注目を集めていて、その一番エネルギーが強いと言われる場所を河合氏が写真にとってそれが雑誌に載った。それが、河合氏が寄りたかった理由かもしれない。そこで少しパワーをもらったふりして古道に戻って、日光川から離れて九品町に入って、一宮市街に入って、一宮商業高校のど真ん中にぶつかってしまう。学校の南に九品地公園があって、その中央部から道が飛び出ており、いかにもかつての古道が断ち切られたことを思わせる。学校に説明の看板でも出し、公園に古道の跡を残したら面白かろうに、と思う。ここで小休止。参加者に山男がいて、コッヘルで湯を沸かし、コーヒーをいれてくれる。コーヒーを好まない人には紅茶を用意し、その後にお茶も用意してくれる周到さだ。河合氏が鎌倉街道の、というより一宮のまちおこしの宣伝を始める。小栗判官の話と一宮出身の舟木一夫の話だ。とりわけ、舟木一夫には思い入れが強いようだ。

一休みして、無量寿寺から浜神明社に向かう。道路わきの小さな社だが、そこには中島宮に遷幸した後、倭姫命が腰かけたという石がある。当時はここまで、潮がさしこみ、ここで船の出発を待ったのであろう。船をつないだという松もつないだという松も立っているが、ちいさな松だ。何代目の松なんだろう。河合氏のような人がいて、松が枯れるたびに新しく植えて伝説を大事に守ってきたのだろう。 

浜神神社の西に真清田神社がある。尾張氏は木曽川の清水で田がうるおうこの地を中心においたようで、真清田の名はそこからきている。尾張一之宮と言って、一宮の名の由来でもある。ちなみに、二の宮は犬山の大縣神社、もっとも知られた熱田神宮は三ノ宮であった。

笠縫で泊まった阿仏尼は、墨俣の浮橋を渡って、その日のうちに下津(稲沢)まで足をのばしている。途中、玉ノ井のことも黒田の宿のことも触れていないが、一宮には寄ったらしい。やはり息子のことが気になって、願い事をしたかったのであろう。

又一の宮といふやしろをすぐとて、
     一のみや名さへなつかしふたつなく 三つなき法をまもるなるべし
               (十六夜日記)

 解説書には、「ふたつなく三つなき法」というのは、一乗の法すなわち法華経をさすとあるが、阿仏尼にとっての法を守るというのは、実子為相が父の荘園を引き継ぐことを指しているように思える。

 大きな神社だ。神社の人が私たちの集団を見つけてやってきて、真清田の名は、きれい

な湧水に恵まれた田を意味しているとか、戦災で大半が焼かれたが、あの木だけは残った

とか、神社がどれほど立派であったかを語り始める。私たちを観光客と思ったのかもしれ

ない。

 それを遮るように河合氏が本殿の脇の神社(本殿の中の神社)にわれわれを連れて行っ

た。服織神社と言って、一宮が機織りの町であったことを示している。参拝する際に鳴ら

す鈴に舟木一夫の名がある。百万円を寄贈したと河合氏が自分のことのように得々と語る。

これを見せたかったらしい。先ほどの神社の人もついてきて、これまた得々と語る。話は

舟木一夫の裏話にまで及びだした。鈴が古びてきて、二度目の寄付を依頼したが断られて

しまったということだ。

 その時はもう落ち目だったかもしれなくて、それは仕方がないことだと思うのだが、金

を出せなくなった舟木一夫に遠慮はいらないと思ったのかもしれない。あれやこれやの彼の出生にまつわる悪口まで言い始めた。由緒正しくない(?)舟木一夫に由緒正しき神社は寄付してもらわなくてもいいとでもいいたげだ。こんなことも知っているとか、有名人の裏話を知っているだけで偉くなったような錯覚に陥るある種の自慢なのか。

  脇で私たちと聞いていた、舟木一夫を一宮の観光大使として売り出そうとしている河合氏の顔色が変わってきた。

「あの時は舟木さんも大変な時で、仕方がなかったのですよ」

私たちにもくれたまちおこしの名の入った名刺を神社の人にも渡した。

「私たちは今一生懸命一宮のまちおこしをしているんですよ。だからここにも連れてきたんすよ。それをよそから来た人になんてことを言うんですか」 

そんな河合氏の声が聞こえてきそうだった。神社の人はバツが悪そうにその場を去った。彼は私たちを町おこしの仲間でもある知り合いの喫茶店に誘った。そこで私たちは遅めの昼食をすることにした。私たちが、河合氏がすすめるお好み焼きを食べている間も、奥の方で店主となにやら話し込んでおり、先ほどのことがよほど腹に据えかねたようだった。

ここから一宮駅がすぐだが、腹ごしらえもしたので、もう少し足を伸ばすことにした。大江川に沿って歩くと1390年開山したという常念寺、牛野通りと川田町あたりに牛野神明社がみつかる。そこに照手姫袖掛け松があり、石碑に由来が書かれている。

熊野で元の体に戻った判官は京に戻り、天皇から常陸、駿河、美濃の国司に任ぜられ、京から青墓に照手姫を迎えに行き、再会し、常陸の国戻る。その折、鎌倉街道筋のこの地の松に袖を掛け、しばし休息したと伝えられる。鎌倉街道はこれを因んで小栗街道とも呼ばれている。ここではもう、土車に乗った小栗判官の苦しい旅ではなく、「恋の道行き」になっている。結神社の願い事が効いたのであろうか。照手姫が小袖を松の木に掛け、判官が彼女の汗をぬぐってやる姿が目に浮かぶ。判官が土車に乗って通った形跡はもうない。

妙興寺へ出た。1348年に開山し、南北朝時代には尾張の北朝勢力の拠点でもあった。街道は裏の小さなそれでも残っている東市場神社を通っていたようだ。妙興寺が栄えることによって、市場がにぎわったようで、今も街道沿いに東市場の地名が残っている。妙興寺は広い敷地に道場があり、時には参拝者に座禅を許してくれるようだ。河合氏は住職とも知り合いのようで、何やら話に行ったが、その日は行事をやっていてかなわなかった。妙興寺は城としての機能ももっていたようで、河合氏がその証としての堀が残っていることを教えてくれ、隣接した博物館にも案内しようとしたが、私たちは彼の案内に疲れてしまって、幸いすぐ近くであった妙興寺駅に向かった。河合氏は少し残念そうであったが、私たちは途中の庭先のアジサイが満開であったことに満足してしまっていた。帰りの列車内で、疲れの癒えた頃、彼に悪かったかなと私たちは少し反省した。


# by kimagurebito | 2026-03-02 10:10 | 鎌倉街道(中世東海道) | Comments(0)

『世界史』7

 フランス革命後自由の理想はヨーロッパ中に広がっていったが、自由主義や民主主義の原則は薄められ、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」を出すが、1848年の革命は成功しなかった。ナポレオン3世が大統領になり、イギリスは漸進的改革に着手し、選挙権を拡大していった、ロシアがトルコを破ることができず、イタリアとドイツが独立した。ドイツとフランスの社会主義者はインターナショナルの原則を守ることが出来ず、互いに争い合った。
 民主革命は、政府とは神の意志ではなく、人間が作ったものであることを明らかにした。しかし、同時に、もし政治指導者が国民多数の支持を得ることができるなら、旧体制の指導者たちが及びもつかない権力を手にできるということでもあった。国民徴兵制だ。

# by kimagurebito | 2026-03-01 19:01 | 私たちはどこから来てどこへ行くのか(改訂 | Comments(0)

『世界史』6

 1500年、地理上の大発見と宗教改革が中世ヨーロッパにとどめをさした。
  1492年コロンブス、アメリカ大陸へ
  1498年ダ・ガマ、喜望峰へ
  1522年マゼラン
  ルネサンスと宗教改革
 18世紀末から、ヨーロッパ社会では互いに対をなす二つの変革が開始された。フランスから広がった政治革命は、旧体制のもとでの複雑な集団的特権層を破壊し、おびただしい数の個々の市民のエネルギーを解き放った。政府と国民は、それまでになく緊密に協力するようになった。その国民の意志が表明される手段として選挙があり、暴動、デモがあり、もしくはジャーナリズムがあったが、当面の政治的指導者に黙って従うことも、同様に意志の表現であり、何百人もの国民が戦争のために動員された。(1688年名誉革命、1789年フランス革命)やがて、新しい形の特権層(ブルジョワジー)が生まれ、19世紀の終わりに近づくにつれて、既存の体制に対する新しい社会主義の挑戦が勢いを得ていった。
 もうひとつの変革は産業革命である。フランスで政治革命がおこったときにすでにイギリスの経済は、機械力をマニュファクチャーに応用することで変革をはじめていた。人類は農業革命によって急速に人口をふやしたが、貧しさは狩猟時代以下であった。(マルサスの論理)それが、産業革命によって人々は豊かになった。しかし、それは先進国だけであり、自然を搾取する見返りという面をもっており、環境問題がおこるようになった。


# by kimagurebito | 2026-02-28 11:52 | 私たちはどこから来てどこへ行くのか(改訂 | Comments(0)

『世界史』5

 中東にコスモポリタン文明が完成し、インド、ギリシャ、中国に新しい高文化がおこるが、ステップ地方の遊牧民たちは西ヨーロッパ全土に攻め込み、その先住民を征服し、吸収した。力に訴える習慣とか、戦士的な美徳はヨーロッパ人の意識に植え付けられた。(青銅器時代の征服者もたらした古代語から由来しているインド・ヨーロッパ語族)
 紀元前1680年頃エジプトはヒクソスに征服され、メソポタミアはカッシートに権力を奪われ、クレタ文明はアカイア人、インダス文明はアーリア人に滅ぼされる。ミュケナイ人のギリシャ、アーリア人のインド、殷人の中国となる。

 ペルシャを退けたギリシャは、ペロポネソス戦争とマケドニアに支配され、ヘレニズム文明をおこし、ローマが台頭する。長く続いたローマも弱体し、三度にわたる蛮族の侵入にみまわれる。まず、中央ヨーロッパにフン族が侵入する。ゴート、ブルグンド、ヴァンダル、フランク、アングロサクソンその他のゲルマン民族が、
 第二波として378年から450年ごろまでにローマ領国内に入った。ガリアにおけるフランク王国が統一された後、アヴァ―ル族の遊牧民の集団が、南ロシアからハンガリー平原に侵入してきた。バルカン半島の北部及び中央部をスラブ語が話される地域に変えてしまった。568年以後、ゲルマンのランゴバルド部族はイタリアの内陸部全体からビザンチンの勢力を追い払った。718年以後ビザンチンの支配力は一定恢復されるが、ドナウ下流にはブルガリア帝国、ヨーロッパ国極西部のカロリング帝国の二つの蛮族国家ができる。一般語は、ラテン語から離れ、ゲルマン語ロマンス語系の様々な言語になっていく。
 第3波としてマジャール人ハンガリー人がビザンチン海軍を全滅させ、さらにヴァイキングである。やがて、ロシア、ハンガリー、スカンディナヴィア三王国がキリスト教による執政をはじめて、ヨーロッパは封建制度の始まりをむかえる。
 

# by kimagurebito | 2026-02-25 13:44 | 私たちはどこから来てどこへ行くのか(改訂 | Comments(0)

『世界史』4ー遊牧民の登場

 中東式の新石器農耕は、温度、降雨、自然林などの条件のゆるすかぎり、間断なく新地方にひろがった。やがて、いくらかの時間をおいて、文明の名を冠してもおかしくない複合度の高い社会が、これまた新しく、条件の適した土地にうまく根をおろした。
 初期農耕が発生した丘陵山岳地帯の北のユーラシア大陸のステップ地帯においては、木が少なく、したがって焼畑農耕に適した場所はほとんどなかったが、ステップ地帯特有のひろい草原は、家畜の群れを飼育するのに適していた。ステップの狩猟民たちは、初期農耕民が発達させた一連の技術に接したとき、家畜飼育をとり入れたが、穀物栽培のための骨の折れる農耕は受け入れないで、自分たちの自然環境に対して効果的な適応をとげた。遊牧民的スタイルである。紀元前3000年頃である。
 こうした生活にあっては、実力のある大動物狩猟者特有の組織力や力に訴える習性などが引き継がれ、すぐに表立って姿を現した。それに反して、初期農耕民の共同体社会は、きわだって平和で平等主義的だった。遊牧民が農耕民とぶつかって戦うときには遊牧民は決定的に有利であった。農耕民の生活によって可能になった人間の数の優位と遊牧民の必要から生まれた政治・軍事組織の優越とがぶつかりあった。
 エジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明と蛮族と呼ばれる人たちである。

# by kimagurebito | 2026-02-24 11:53 | 私たちはどこから来てどこへ行くのか(改訂 | Comments(0)